くろまる。の日記

躁鬱。私の感情と過去のまとめ。

バイオリン(2023春の下書きを供養)

ずっと、私の人生のどこがおかしいのか分からなかった。冷静に考えれば分かるかもしれないけれど、それでも、私には出来ると思っていたことばかりだったし、それが当たり前の環境に居たからおかしいなんて言う感覚はなかった。

初めておかしいって言われたのは、19のとき。「常に母親の顔色を伺って生きてきた」と言った時にそれはおかしいよ、と友人に言われた。他のおうちがそうじゃなかったんだなぁってびっくりした。

 

3歳の時、私はバイオリンを習い始めた。決して裕福では無い時期もあったけれど、それでも母は応援し続けてくれた。そして母は、母である以上に私の指導者になっていった。私が通い始めたそこは子供の英才教育としての教室だった。でも、結果的に英才教育のレベルで済むものじゃなくなっていった。毎日楽器には触りましょうね、なんて生ぬるいものではなかった。小学校に行く前に1時間練習して、帰ってきてまた練習してた。本当に毎日泣きながら練習していた。怒鳴られて怒られて出来るようになるまでひたすら弾き続けて、繰り返し間違えずにできるようになったらやっと晩御飯が食べられた。

母は、自分が間違っていると思ったことには容赦せず、また、自分が間違っているかもしれないと思うような人ではなかった。3歳から小学4年生まで通い続けたその教室も、結果的に母と先生が揉めて辞めた。でも、この記憶は母の中からは消えている。なので、私がやめたくてやめたことになっている。その先生が亡くなったらしいが、私の元にお通夜の連絡は来なかった。そりゃ、そうだよね。

別に英才教育の教室を辞めたとしても、私も母もバイオリンを辞める気は無かった。

小さい頃からよく、土下座をしていた。謝るためには土下座をしなきゃ伝わらないと思ったから。バイオリンも、辞めれば?あんたがしたいって言うからどうにかさせてやってるのよ、と言われていたが、土下座してお願いします続けさせてくださいもっと頑張りますごめんなさい、とずっと言っていた。そこまでして私がバイオリンに固執したのは私にはバイオリンしかないと思っていたから。他に自慢できるようなことも無くて、私の武器はバイオリンしかなくて、だからこそ、バイオリンが無くなることが怖かった。それを知ってか知らずなのか、母は「あんたがしたいって言ってるからお金も出しているのに」としきりに口にしていた。これは何に関してもそう。考えたら中3の6月、塾に通いたくなった時も土下座して頼み込んだ。全ては私のわがままで、それを聞いてもらっている、そんな構図は小学校低学年の頃にはしっかりと出来上がっていた。

そして、次の先生の所へ行く。ある意味、人生のターニングポイントだったかも。でも、きっと繰り返したとしても同じ道を辿るだろう。

よく質問で「過去に帰りたいですか?」とあるけど、NOだ。やり直せるところは沢山あるかもしれないけれどきっと同じ道をたどるし、私が最善と思ってやってきた結果が今ここなのだから、やり直したとてどうしようもない。そして、もう一度やり直す気力もない。

新しい先生は、とてもストイックで、でも私の才能を信じてくれていた。小学5年で初めてコンクールに出て、この地域ではわりと有名なコンクールのバイオリン部門2位、総合3位になった。夏休み終わりの三日前だったからそこまで毎日ずっと練習して、残り2日で宿題終わらせて、一日だけ遊びに行った。お金がなかったので、鳥類公園に遊びに行った。小学5年の夏休み。