くろまる。の日記

躁鬱。私の感情と過去のまとめ。

3階飛び降り事変

まず、記載しておくが、現在私が歩行困難なのは線維筋痛症慢性疲労症候群という病気が原因であり、この一件はそれとは全く関係ない。

 

最初の記憶は、激痛すぎて叫びまくったこと。叫びまくって叫びまくった。叫び続けると意識が消えて、また痛みで目覚めて叫び続ける。

何故か周りでは数名の患者が和室で栗拾いをしていてバカ殿がテレビで流れていた。後にこれはせん妄だと知る。せん妄とは突然発生して変動する精神機能の障害、らしい。コピペしてきた。噛み砕いて言うと、この世に存在しない幻想世界だ。このせん妄はしばらく続いた。目の前に巨大なエレベーターがありそこでiQOSのブラックメンソールを配っていたり(当時の私はヘビースモーカーだった)、プールと回転寿司しかない謎の施設に遊びに行ったり、何故か裁縫の授業をやっている部屋に連れて行かれたりと、記憶にあるだけでもとてもバリエーションに富んでいる。この話をすると笑う人間と引く人間がいるが、私的には笑い話だ。

そのうち意識がほんのわずかに鮮明になってきて、針金がぶっ刺さった左足が目に入った。相変わらず激痛は続いていた。足が痛い訳ではなくて、背中から腰にかけてが死ぬほど痛かった。相変わらず「痛い、痛い」と叫び続けると謎の機械のボタンを看護師さんが推しに来て、痛みが少しだけ和らぐ。なんとなく、先生らしき人の言うことに、はい、はい、と同意していたら足の手術が行われ、気づくとぶっ刺さっていた針金が抜かれていた。

更に、少しづつ意識が鮮明になってくる。叫び声がどこからかずっと聞こえるその部屋にはずっとラジオが流れていて、オリンピックがどうのと、嵐の曲が永久ループのように流れるなどしていた。時は2021年の東京オリンピックの真っ只中だった。

そして、知る。

 

私は自宅マンションの3階から飛び降りていた。

 

元々高校生のときから精神疾患を患っており、双極性障害を疑われていた。

当時20歳、大量の酒と処方された精神科の薬を服薬する日々を送っていた私は、日付が回った頃に友達の家に遊びに行った。多分その前にストゼロ500ミリ缶を7本は軽く空けていて、友達の家に着いてからチャミスルと更にストゼロを飲んだ。ここまでの記憶はある。行く前に現旦那(当時は彼氏だった)にいまから行くのはやめなさいと言われたらしいがそれを振り切って行った、という記憶に関しては、全くないが。

なんだかその頃の私はおかしくて、何かやらかしてなんか入院させられてたり(何をしたのかは覚えていない)、危ない仕事を隠れてしていたり(犯罪では無い)、福岡天神の警固神社の階段でカミソリで腕を切っていたり、初めて行った建物の7階に腰をかけていて滑り落ちかけてそれを見ていた知人に腕を掴まれて2人がかりで救出されたりと、それはまぁはちゃめちゃな生活を送っていた。しかし、当時はそれが当たり前で、そして今となっては記憶が朧気で、その頃もなんとなく生きてる感じがしないような不思議な感覚だったのだけは微かに覚えている。ただただひたすらに酒に溺れていた。恐らくアル中だったと思う。そしてまた、当時の処方薬が今振り返ると過激すぎたのもあり、酒との相乗効果でとんでもないことになっていたのだろう。

話を戻す。友人宅に飲みに行ってからの記憶がない私だが、話を聞くと、そこから自力でタクシーで当時居候していた現旦那のマンションまで帰り、マンションの最上階である3階から飛び降りた、らしい。

恐ろしいところが、飛び降りた記憶が全くないところだ。

腰でもかけていて滑り落ちたのか?とも思ったが、第1発見者である旦那いわく、3階にきちんと靴が揃えて置いてあったらしく、まぁ、飛び降りたのだろう。

不幸中の幸いであるのは我がマンションが3階建てだったという点だ。恐らく、もっと階数があれば最上階まで行っていたと思う。恐怖なく7階に腰をかけていたような頃だったから。

しかしその不幸中の幸いで死に損なった私は声が枯れて涙で顔もぐしゃぐしゃになるくらい叫び続けた。マジで痛すぎた。その時背骨から腰骨にかけてバッキバキに折れていてボルトが11本入っており、左足首も折れて釘が3本入っていた。そんなことを知る余裕もなく昼も夜も分からず叫び続ける日々を送るうちに、ようやく大分冷静になってきた。この時点で何日たっていたかは分からない。

恥じらいなども何も無くなすがままだったのが、段々と、喉が乾きました、と言えるようになり、朝食を味噌汁だけ食せるようになっていった。(ベッドを軽く起きあげて味噌汁を啜った時点で痛みが限界になり、起動不可となっていた。)

そしてその後は更に、尿道カテーテルを拒否し自力で排泄しようと試み、ご飯もお茶碗ではなくおにぎりにしてもらった小さいものを1個詰め込むようにして食べて、車椅子に乗りたいと懇願し5人かかり位で車椅子に乗せてもらって10分耐えるなどと、自ら積極的に回復しようとし始めた。

何故か、生きていてよかったと思うようになっていた。多分精神薬が完全に抜けたのと、この痛みを感じるくらいなら生きてる方がいいと思ったのだろう。

看護師さんとも仲良くなって、そこが集中治療室だと知る。

 

1ヶ月弱。集中治療室にいた私に移動が告げられた。集中治療の必要が無くなった、ということだ。その時はお世話になりすぎた看護師さん達との別れが悲しすぎて号泣したのを覚えている。

 

そしてそこからさらに2ヶ月。

リハビリにリハビリを重ね、私は無事退院した。

 

そのあと何度も「なぜあの時死に損なったのだろう」と思うことがあった。辛すぎて未だに会いたいと切に願ってしまう別れもあったし、親に絶縁されたこともあったし、鬱をこじらせて家から1人で出れなくなっていたこともあった。

が、今となって、私は生きていてよかったな、と思う。なんだかんだ今、私は生きてて幸せなのだ。今でも不安定になることは多々あるが、それでも死にたいという衝動に駆られることはほぼ無くなった。

今かかっている身体の病気で歩けなくなってしまって、したいことも出来なくなっても、それでも生きててよかったと思う。

俯瞰で、私は生かされるのかもな、なんて、思う。

 

あの時の地獄のような痛みと苦しみを、忘れたくないし、忘れたらいけないと、思う。

背中と足のしっかりと残っている傷跡は一生きえない。でも、それも、ある意味私が生き抜いてきた証でもあるのかもしれない。

これからも私は生きていくつもりだ。

歳を重ねた時のためにアイクリームを毎日塗るくらいには日々生きる気力に溢れている。

なので、どうぞ、よろしく。一緒に生きていきましょう。

 

 

これは私なりの備忘録。抜けているところもあると思うけれど、人生最大級と言っていいほどの大事件を記録しておこうと思った。